呉楚七国の乱から八王の乱に見る郡県制の推移

publish: 2019-02-15, update: 2019-02-15

目的

後漢は、郡県制という中央集権型の体制で、王朝が運営されていました。この郡県制は、秦の始皇帝による中国の統一と、前漢時代の呉楚七国の乱を経由して成立します。 この記事では、その経緯についてまとめたものです。

概要

  • 周:封建制
  • 秦:郡県制
  • 前漢:郡国制~郡県制
  • 後漢:郡県制

後漢以降は、中央集権の体制を維持し続けます。

封建制とは

封建制は、君主が一族や臣下に領地を与え、君主に代わって領地を統治させる体制です。 なお、中国における封建制は周の時代(紀元前1046年頃から紀元前256年)の政治体制を指し、中世ヨーロッパや、日本での封建制とは狭義では意味が異なることに注意が必要です。 領地を与えられた地方領主を諸侯と呼びます。諸侯は世襲が許されていました。これは、諸侯が自分の後継を自分で自由に決められることを意味しており、ほかにも行政や軍事など、国を統治するのに必要な権限をすべて有していました。君主に対して臣従や納税を行う以外は、諸侯は君主と同じ権限を持っていたのです。また、諸侯は領地に対する完全な統治権限を持っているために、自分の一族や配下に自分の領地から分割して領地を与えることができました。君主といえども諸侯の領地に対しては勝手に口出しできない点では、封建制は地方分権制度でした。封建制の下では、国家は相似形で複数存在し、国家が国家を内包していました。

なぜ中央集権への力が働いたか

諸侯は君主と同じ権限を有しましたから、諸侯の国力が君主を上回ることもありました。君主が領土の多くを与えて、直轄領が少なくなればあり得る話です。実際、封建制で成り立った周は、衰退するにつれて、一諸侯に対しても軍事的な敗北をなし、諸侯に対する統制力を失っていきます。君主と諸侯の主従関係は崩れ、春秋時代から戦国時代にかけて、周は一諸侯と同等の実力か、それ以下になります。また、周は諸侯を含めても中国全土を統治しておらず、その領土は黄河流域の華北に限定されていました。当時は、鉄器の発明により、農機具の性能が上昇し、農業効率が向上する過渡期でした。そのような背景で、中華圏は拡大傾向にあり、春秋時代には大小合わせて二百以上の諸侯が存在しました。

諸侯は時代が下るにつれて淘汰されていき、ついに諸侯の時代に終止符を打った人物がいました。それが、嬴政、秦の始皇帝です。始皇帝と宰相の李斯は、周が滅亡した原因や、長らく戦乱の時代であった理由は、周が採った封建制にあると考えました。秦による中国統一が成されると、かつての諸侯は解体されて、36(後に48)の郡に再編され、郡は複数の県に細分されました。ここに郡県制が成立します。郡県制の下では、郡や県の長官は、中央から都度派遣されるため、かつて封建制度下で諸侯が有した強力な権限は、君主である皇帝のみが有することになります。秦の領土の統治権が全て皇帝に帰属する点では、郡県制は中央集権制度でした。

秦の滅亡

始皇帝は皇帝という称号を初めて使ったように、新しい概念、制度を生み出しました。郡県制もその一つと言えるでしょう。しかし、1000年も続いた封建制を、あっさり捨て去るところに、秦の政治の強行さを見て取ることができるかもしれません。秦は中国を統一したものの、その政治についていけない者や、息苦しさを感じるものは、多くいたと言えるでしょう。始皇帝の死とともに、秦の政治そのものに混乱が見えると、秦に対する不満が噴出し、陳勝・呉広の乱、項梁の挙兵を誘発します。劉邦によって秦は滅亡し、郡県制はわずか15年で消えます。

呉楚七国の乱

秦に続いて統一王朝となった漢は、しかし郡県制を完全には捨てませんでした。漢は郡国制を敷きます。郡国制は、封建制と郡県制の折衷案で、基本は郡県制を敷きながらも、一部の郡を領地として諸侯に与えるというものでした。郡県制という中央集権の新しい政治体制は認知されつつも、皇帝の一族や功臣を諸侯に封じる伝統的な考えは根強かったのです。郡国制は、強行的な行政改革が秦に蹉跌をもたらしたとみた漢の次善策でした。

しかし郡国制ですらも国家が分裂する背景となりました。前漢成立時は、功臣の諸侯として、淮陰侯の韓信、淮南王の英布 、梁王の彭越など、有力な諸侯が複数いましたが、劉邦の時代にはすでにほとんどが廃され、宗族の諸侯すらも引き締めが図られました。 前漢の景帝の時代になると、諸侯の領土削減が進み、呉楚七国の乱がおこります(紀元前154年)。呉楚七国の乱は、諸侯のうち7国が連合した反乱です。当時、諸侯の領地は、前漢の直轄領を凌ぐほどで、国力を背景に、反乱軍は大軍となります。しかし、諸侯の足並みは揃わず、結局、蜂起してから三か月という短期間で反乱は鎮圧されます。

この反乱により、諸侯の権限は大幅に削減されます。これまでの諸侯は、自国の領地に対しては皇帝と同等の権限を持っていましたが、反乱以降は、中央政府から相と呼ばれる長官が派遣され、行政や軍事の一切を相が握ります。諸侯は領地から上がる税金の一部を受け取るだけの名ばかりの存在となります。

後漢の郡県制

後漢における郡県制は、以上の経緯から成り立つものです。後漢にも皇室一族の諸侯は多数いますが、実権を持った者は一人もいません。皆、中央から派遣される相が、行政、軍事を管轄しました。後漢末期や、三国時代にかけて、諸侯の活躍が全く見られないのは、諸侯が権限を全く持っていなかったためです。一族以外では、曹操が唯一、諸侯として魏公(後に魏王)に封じられ、政府を開くことを許されました。曹操だけは封建制を彷彿とさせる諸侯だといえます。

郡県制による中央集権の体制は、以後、中国の歴史を一貫しており、封建制度が復古することはありませんでした。しかし、諸侯の存在は必ずしも利点が無かったわけではありません。諸侯から力を奪うことは、地方の軍事力の衰退につながりました。郡は軍事の権限を持っていましたが、中央から派遣される長官が統率する軍と、諸侯が自国の防衛のために統率する軍とでは、重みが違います。後漢末期に、曹操、袁紹、孫策といった群雄が地方に割拠したのは、地方に軍事的な空白があったためでした。

八王の乱

郡県制による中央集権体制は、後漢と後漢から禅譲を受けた魏では徹底して行われました。ところが、後漢も魏も、禅譲をもって王朝が滅んでいます。禅譲とは、世襲ではなく、有能な臣下に帝位を譲ることを意味します。もっと現実的な見方をすると、有能な臣下はその能力によって、(特に世の中が混乱しているときほど)皇帝の権威すらも上回る実力を持つため、皇帝は有能な臣下に帝位を譲らざるを得ないのです。

魏から禅譲を受け、三国時代を終わらせた晋では、後漢や魏が禅譲せざるを得なくなった原因について着目したのでしょう。その結果、晋は郡国制を復活させました。皇族としての諸侯の力が弱いがために、後漢も魏も滅んだのだと見たのでしょう。晋では、皇族を諸侯に封じて軍権を与えました。しかし、結果は諸侯同士の対立でした。皇族同士が戦争に明け暮れる八王の乱を経て、晋は中国統一からわずか30年ほどで滅びます。

Page(/blog/2019-02-15-process_of_centralization.md)